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豆知識vol 今川義元尾張攻め込まず他の国攻め込んで領土

今川は当初、北や東に領地を広げようとしました。今川義元、尾張攻め込まず他の国攻め込んで領土拡大図っていたら、最大でくらい今川領なったでょうか まあ、跡継ぎの氏真暗愚みたいなので、1代限りなる思 皆さんの予想聞かせてください 入門5分でわかる今川義元の生涯。今川義元イラスト 戦国武将の今川義元といえば。どのようなイメージを
思い浮かべますでしょうか?これがきっかけで関東の北条氏が攻め込んできて
年間ほど争いましたが。最終的に自領の駿河国を守り抜いています。 その後。
西の三河豆知識vol。今川 義元は。ご承知のとおり年永禄年桶狭間の戦いにおいて。織田
信長に討たれました。独立していた徳川 家康に三河から攻め込まれ。翌年には
最後の拠点の掛川城を家康に明け渡すこととなりました。鎌倉時代の今川 国氏
くにうじから始まり。幕末。明治の範叙まで。今川氏は約年続いたこと
になります。義元や氏真の代に培われた文化的教養がここで実を結び。江戸
幕府の下。高家として存続することができたのではないでしょうか。

『桶狭間の戦い』に敗れた今川軍に。???と言うのが。『桶狭間の戦い』の大まかな流れですが。今川義元が討取
られた永禄年年月日の未刻ひつじのこくー午後時頃以降。
今川全軍は一体どうなっていたのでしょうか? 通説によれば。武田が今川に攻め込まず。今川が徳川に攻められてひぃひぃ言ってるから義信なら助けにいくんだろうか
そして姑の仇の義元が討たれた程度で今川が総崩れになったのはどうして? 桶
狭間後に嫡男を起てて国固めをすれば良かったのでは? 人間七七四織田徳川
同盟締結前に武田今川と連合して尾張に攻め込む選択肢もあるだろう。 そうすれ
ば「桶狭間の戦い」について。否定された通説 永禄年月日グレゴリオ暦だと月日に起こった
桶狭間の戦いは。かつては流布していた戦記物。小瀬信長記』などによって。
上洛を目指して尾張に侵入した今川義元を。織田信長が奇襲によって倒した戦争
。と考えられていました。元々尾張領だった鳴海城の山口氏が。信長の父信秀
の死後今川に寝返り。以後今川領となっていた。稲葉山城下合戦の教訓 では。
このような作戦を思いつき。実行しようとした背景には何があったのでしょうか

奇跡の逆転劇から460年。それがなぜ。歴史的大逆転を起こすことになったのか。今川義元の大軍が目前
に迫ったその夜。清須城に詰めた織田家重臣らは。信長が軍議を開くのを待ち
続けた。義元のねらいは信長を痛撃し。状況によっては一気に尾張全土を制圧
することも視野に入れていた。あるいは。大軍を擁ようすることに油断
した今川義元の愚将ぶりだろうか。は。弱体化した幕府から一線を画して。
実力で領土を広げる「戦国大名」へと様変わりする者が少なくなかった。

今川は当初、北や東に領地を広げようとしました。北には武田、東には北条がいてずうっと争っていたけれどらちがあかないから仕方なく同盟したのです。こっちは無理。南は海です。というわけで西に向かう以外ありませんでした。尾張に向かわないとすれば、今川が進むのは信濃です。桶狭間の戦いは永禄3年。その時点では、武田信玄は北信で上杉謙信と抗争中です。川中島の戦いは、永禄4年。北条領に侵攻するよりは、信濃を武田と取り合う方が容易ですね。尾張以外となると関東ですかね。義元は家督を継ぐと武田家と同盟を結びます。それまでは北条と結んで武田と争っていました。そのため北条との間に河東一乱という戦争状態になりました。この紛争は上杉?古河公方連合軍に河越城を包囲された北条が譲歩したために終結して今川?北条?武田の同盟につながりました。北条と今川の関係は北条の始祖である早雲庵宗瑞が今川氏親の叔父であった事から始まります。今川家の部将としてスタートした宗瑞は伊豆に侵攻して戦国大名になりますが今川家から完全に独立したまでではなく駿府御屋形の要請で出陣することもありました。そのために義元に北条はかつては今川の家来だったじゃないか。だったらその領国も今川のものだよねという意識が働くかもしれません。それと武田と結んだのは何回甲斐に攻め込んでもなかなか屈せず時には大敗もしていたから労力に見合わないと思ったからでしょう。しかし、北条を攻めたら三河は手付かずとなり織田信秀の侵攻に対応できません。史実では三河の大敗で信秀の名声は失墜して以後織田家は三河に侵攻することはなくなりますが、この場合は三河どころか遠江まで侵攻するでしょう。なぜなら遠江は織田家の主君である斯波氏のかつての領国で一度奪回に動いて大敗した尾張の人達にとって因縁の地だからです。その遠江を信秀が奪回したとなればその地位は本家を完全に凌駕するでしょう。今川と織田は結局は対決する運命だったんです。北は武田領、東は北条領、という強国が壁となり、西織田領にしか侵攻出来ません。桶狭間の戦い直前が「最大版図」となります。今川には優れた武将が少ないのも、武田?北条を相手に戦えない理由となります。そもそも今川義元が尾張に全力で攻め込んだのは甲相駿三国同盟で武田、北条と手を組んで敵を織田家に絞ったからです。。言いかえると尾張以外に攻め込むと言う事は、同盟を組まずに武田家か北条家の領地に攻め込むという事です。もちろんその場合でも織田家と仲良くなるわけではありません。結局のところ敵が増えるだけで、史実と大差は無いでしょう。

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